野菜販売農家をやめる覚悟


ここ数年での経験を元に考えてきたこと。それは野菜の販売農家をやめることです。放棄するというよりはその先に行きたいという想いを綴ってみます。

その前にちょっと全体像を把握していただければと思います。

ご存知の方も多いと思いますが、我が国では年々生産人口が減り続けること戦後数十年。この先変わらず20年もいけば農業人口ゼロ万人という時代が必ず訪れます。それは統計が指し示すところです。

明治初期にはこの国の8割が農民だったという瀬川清子さん(鹿角出身の民俗学者)の記述があるそうですが、現代では200万人/1.263億万人分=1.5割まで減ってしまったことになります。

この人口統計を見るだけでも様々な考察ができそうです。
これに付け加えることさらに、2008年から2010年をピークに人口減少時代を迎えました。人類史上初めての経験となります。
https://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.html

見田宗介さんの著書「現代社会はどこに向かうのか」に記述されるロジスティクス曲線として指摘されているように、高原期を迎えた人類がこれから生命体として存続しうる存在なのか、あるいは淘汰されるのかといった真理的な哲学の範疇にこのテーマは在るだろうと僕は思います。(この著書の一部にたそがれの稲刈り騒動に触れられている箇所があるのでもし機会があれば読んでみてください。)

生産者人口が減ったことは個々の生産者の担う耕作面積が反比例して増大したことを意味し、それを可能とするような緑の革命に端を発する技術革新を伴い、同じく正比例して消費的人口が膨大に増えたということになります。食料増産技術が生まれ作る人が減り、食べる人が増えるも、しかしそれは環境問題を産みながら人口減少を引き起こし、食の劣化や世界の食糧問題を内包する人類存在の根源的な問いであることは、昔から今も変わることがありません。「農業」という専門業家されて矮小化された問題ではなく。

さて、我が国の生産をもう一度見てください。作る人ゼロ万人が1億の人を食べさせる食糧生産を担う。実際は60%が輸入、半分は廃棄ロスという細かい視点は省いて、注目して欲しいのは生産人口と消費人口の割合です。

このことから、自らが自らの文明を食べ尽くすのが人類という生命体の宿命であり、麹菌や微生物群もそうだと思いますが、食えるものがあればあるだけ食い続け繁殖し続け自滅に至るというプロセスをインプットされた生命体であるのかもしれません。

人類に食いつくされた地球上の大地や水は自らの自浄のため氾濫を起こす。まるでナウシカの世界のように。いやそれはバーチャルな体験ではなくこの身体を通して体感すべき現実問題となりつつあるのです。

少しまともな事を書こうと思ってかなり回りくどい話になっているに違いないのですが…。

本題に入ります。たそがれと名乗って10年が経ち、これまでの無経験だった時代を含め、諸所の反省やもっと上手くできる部分があるだろうと模索・葛藤することがいくつもあります。そのなかでこの5,6年で取り組んできたのが野菜の生産・販売部門です。

各種マーケットイベントやマルシェへの出店の機会が増えるに従って、これまでの米や米加工品だけでは販売力が足りないと考え、夏はたくさんの人が必要とする無農薬の野菜をつくろう!と意気込んで育ててきた野菜部門です。当地の粘土質でも育つ野菜というマッチングもこの5年でかなり自分なりに理解してきたつもりです。最初は無農薬で化学肥料の投入をやむを得ないと考えてきた野菜作りも徐々に無化学肥料・無施肥のステージを迎えています。

毎夏に開催している畑deマルシェ(えんがわマルシェ)

しかしながら、マルシェ向きの野菜栽培を考える故、多色刷りの少量多品目栽培は決して楽なものではありませんでした。

各々の野菜に適した農地に畝一つごとの別の品目を栽培し、栽培管理の時間差を使って除草や生育管理。野菜セットを一つつくるとなるとあっちこっちの畑を朝から巡り、せっせとロスのないように収穫し、作業場に戻って選別と袋詰め、伝票を手書きで書いてできれば一言添えたいと一筆を入れるために一度PCにもどったりして午前中はこの作業に追われ得る収入は概ね、その日1日を食えるに届かないほどの手間賃です。そうした経験を重ねる度に、これまで育ててきた野菜の数ヶ月は何なのかと考えることが多くなりました。まるで、野菜の価値が安すぎるのだと思います。それは化成肥料で無理やり大きくし、除草剤を振りまいて草取りを軽減するおよそ食べ物とは言えない植物とは一線を画すのだとやはり思います。岡本よりたかさんも書いていましたが、キャベツ一玉100円という野菜づくりは僕にはできません。
https://ameblo.jp/yoritakaokamoto/entry-12337198929.html

そこで考えたのが農園の立ち上げ当初から考えていた畑のシェア、自給のシェア、農的暮らしのシェアができる販売物としての野菜ではない農園をつくるという目的の反転。それがたそがれ野育園キッチンファームの誕生なのですが、長くなってきたので続きは次の項で書きたいと思います。