コロナで生まれた漁師とのタッグ

4月2日、知人の漁師である山本太志さんのSNSに下記の投稿があり、そのことが新聞記事にもなった。

新型コロナの影響で魚の下落が止まらない。
写真は昨日の値段です。
私の手のひらほどのサイズのマダイ。キロ10円でした。
大体200グラムと換算すると1匹たったの2円です。
魚が可哀そうでなりません。
以前コラムで書かせていただきましたが、私たち漁師は魚の命を奪うことを生業としています。その上で、この奪われた貴重な命をより高くすることが魚への供養になると考えてみんな日々努力しています。
しかし今、現実にはこのタイ5匹とチロルチョコ1個は同じ値段です。
この魚達は一体何のために産まれてきたのか。
漁師として、本当に魚に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
新型コロナの爆発的感染により、飲食店の皆さんはじめ沢山の国民の方々が苦労されていることは百も承知の上ですが、遠い秋田の地でも甚大な影響が出始めていることを皆さんに知ってほしい。
多分漁業だけではなく日本の一次産業が今悲鳴を上げているはずです。どうかその声が届きますように。
そして、皆さんがこの自粛の先で元の生活に戻ることが出来ますように。

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9年前の震災の災禍以降、生産と消費の連携は常に意識してきたことだけど、それ以上に生産と生産の連携こそが大切なんじゃないかと考えるようになってきた。生産現場が大規模化し、生産者が雇用者となり労働者となり弱体化していく中で、それでも必死に自然の現場に立ち続ける他の一次産業従事者と想いを一つにして、この難局の時代を乗り越えていく必要があると考えてきた。

山本さんとはお互い「東北食べる通信」に特集されたご縁から、何度か顔を合わせお魚を購入させていただいたり、海の話しを聞かせてくれたりするようになった。

今回、コロナ禍の中で魚が売れない。飲食産業の需要の激減でこれまで高値で売れた魚に値がつかない。という嘆きを聞いて、自分に何ができるだろうかと考えたことの一つの回答が、たそがれ野育園というコミュニティでの魚の共同購入。その初回の様子は魁新報でコロナ禍中の記事として紹介された。

5月のさきがけ新報に掲載された記事

そもそも、大きな流通の中で自分のアイディンディディを確立するためには、生産規模を大きくするかブランド力を強化するしかない。

しかし、そんなことではますます環境負荷を高めてしまうことにならないだろうか。本当に家族規模の営農が時代おくれなのか。食の安全性を先鋭化し、顔の見える声の届く生産と消費の関係を紡ぎ直す戦略に未来はないのか。土と食卓を直結する方法論はいくらでもある…などと考えてきた僕たちは、大きな販売ルートを捨て、ITの進展で可能となった全世界の消費者とダイレクトに関係性を構築する道を選んできた。

よって、僕の周りには生産現場への(食や流通を含む)知的関心の高い消費者がたくさん存在する。きっとこの漁業の現状を知りたいと思う方がいるだろうと思ったし、何よりこういうチャンスで山本さんという漁師に寄り添ってみたいと思い、コミュニティでの共同購入を提案した。

ここでいう”コミュニティ “について少し触れておきたい。ファームガーデンたそがれでは、田んぼでのお米の自給体験や畑作物、あるいは草木染め、味噌づくり、菅笠作りなどの農的暮らしの周囲にある全ての体験を農的サービスとして提供している。それを「たそがれ野育園」という名称で展開してきた。いわば、農産物の販売ではなく、農的体験をサービスする部門。

8年目を迎える田んぼでは今季は30組70名の参加者とともに1年を通じた米作りを楽しみ、2年目のキッチンファームでは25組50名の方々と台所と畑を繋ぐみんなが食べるための野菜を自給する場作りを目指している。

CSA(community supported agriculture)が米国で高い評価を受け、日本へと渡りその定着を心待ちにする生産・消費者も多いと思うが、そもそもこの概念と方法論、規模の論理が日本の風土と合わないような気もしていて、それはなぜかと今も考え続けている。CSAは「地域支援型農業」と変な訳がついてしまったがために、地域が農業をサポートするのか、農業(食)にサポートされる地域を目指すのかさっぱりわからない。僕は、「コミュニティとして農を維持する仕組み」が必要だと思う。どちらかが支援するのではなくて、消費者も生産者も協働して農地(あるいは全ての自然)を維持し、その活用方法を最大化するコモンズを目指すべきだ。

そうした考えの先に生産と消費のタッグによる”コミュニティ”があるのだと思う。先述の”地域(community)”はlocalと同義として扱われていて、そのlocalは、疲弊し農家も漁師もそしてその村やコミューンも風前の灯火と化している。

かつて共同体として田畑を維持してきた村(共同体)。の存在意義が崩壊しかけていて、ともに暮らすことの意味を失いつつある。その土着的な”地域コミュニティ”からの思考を一度解体し、知的関心の拡がりや食の連帯、人生のパートナーシップを共有できる様々な活動の協力体制のベースとして再構築する必要を感じる。トランスローカルを含む広義のコミュニティが新しい農村の舞台となり、人々の暮らしの中枢機関(外臓)となるよう場作りを目指して、田畑で実際に作物を育てたり、こどもらと野花を摘んだりしながら、情報の発信と交換を行ってきた。

知的関心は、食べることだけにあるのではなく、自然とのつながり、再生可能エネルギー、住居や衣服の自給…などあらゆる分野に接続でき既得権益とは無縁で未来的だ。

自給自足がある程度できるようになったのなら、次はコミュニティ単位での自給を考えてみたい。巨大な資本や政府(行政)に頼りきらない自活的で創造的な暮らしの営みがそこに浮かび上がる。

そんな未来の在るべき場所を、僕なりにコミュニティと呼称し、それは農や野育や食やエネルギーなどの暮らしの基礎となる交流圏であり、緩やかに人と人とを、密接に人と自然とを結わう姿をイメージしている。

たくさんのメンバーが山本さんからの魚の共同購入に賛同してくれ、4月18日に共同購入が実現した。三密を避けろ、人と会うな!と自戒を促すマスコミを他所目に自分たちの暮らしまで捨てることはできない。と異論を挟んだ。人が生きていくのに周囲の人との関係ほど重要なものはない。これを奪われることになったとしたら暮らしの放棄だと思った。

山本さんの到着とともに歓声と拍手が起こり、少し照れ臭そうに山本さんがトロ箱を並べ始める。後から聞いたのだが、山本さんの所属する八森漁協には個人での魚介類の販売を禁止するルールがあって、自分で獲った魚をそのまま販売することはできないとのこと。山本さんはこの日、一度水揚げした魚を漁協から買い戻して持って来てくれたのだそうだ。

こうした話も漁師という存在を知らなければ、全く判らないことだらけで面白い。ほんの数年前までは米も自主販売ができない扱いだったことを知らない消費者の方も多いんじゃないかと思った。

山本さんはマダイ以外にも様々な魚種を並べてくれた。アイナメ、ウスメバル、カワハギ、ホッケ、ニギスにカレイ、イシダイ、ノドクロ、サメ…

見たことも聞いたこともないような魚。存在のわからないものにグロテスクな印象が付与されるが、市場で値がつかない魚種こそ漁師馴染みの味で美味しいのだと山本さんがそれを諭す。それを食べてもらいたいのだとその場でさばいて見せ、食べ方までレクチャー。そこはまさにいきた食育の場と化した。

我が家ではホッケをたくさんいただいたので、一夜干しにして冷凍保存することに。他にもアジのたたきやカワハギの刺身など、普段いただくことができないような貴重な海の幸に巡り合い、漁師の仕事とその先にある海の命、自然の命に想いを馳せる。

どれもこれも超絶の鮮度で魚ってこんなに美味しかったのか!と舌鼓を打つメンバーからたくさんの写真が送られ、山本さんも嬉しそうにご機嫌なコメントを寄せてれた。

その後、5月、6月と月イチで続いた漁師直送・お魚直売の企画は、八森漁港の禁漁期間である7、8月を過ぎた9月からまた再開したい。

そんな初夏のやりとりをしている間に、横浜から田んぼに通ってくれているライター、保田さえ子さんの記事が天然生活7月号に掲載された。保田さんも同じく東北食べる通信を通じて知り合い、今では大切な田んぼコミュニティのメンバーの一人。

そんな保田さんの記事の下りにこう書かれていた。

「名前も知らないお魚を料理して、すごくおいしかったんです。一般に流通しないこういう未利用魚というのは、その土地で大切にされてきた、在来種の野菜のようなものだと思っています。これからの食は、大量生産、大量消費、大量廃棄の流れを変えて、こういうローカルな小さなものを根付かせていくようなことを大事にできる世界になるといいなと思うんです」


うーむと唸るような一節にモヤモヤした思考の旅が一周したような気になり、ホッケの一夜干しに舌鼓を打つ菊地家の食卓がそこにあった。

生産と消費の垣根を超える努力を、今後も各々が果たすことによって、これまでの流通や生産方式、生存実感へと連なる一連の社会課題として取り組み、身近な自然へと密接に関わるり暮らす術を、次の代、その次の代へと語り継げるよう、このバトンリレーを精一杯楽しんでいきたい。